東海道53次540kmの走破記録 


No.593 岐阜県 武藤翔峰   




気が向いた時に走っていた中山道、平成20年7月26-27日、最後に残った深谷宿ー上尾宿ー日本橋76kmを辿り、京都三条大橋ー東京日本橋570kmの完全走破を達成した。   中山道69次570kmの完踏記録   次の目標は東海道53次、540kmの走破です。今回も木下さん呼びかけの「旧東海道マラニック 吉田宿ー池鯉鮒宿編」 に参加したのがきっかけでした。 これを機に気が向いたときに、走りたい時に、東海道の完全走破を目指します。                      

       

東海道 とうかいどう

東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)は、江戸時代の五街道(東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道)のひとつで、関が原の戦いの翌年の慶長6年(1601)に、徳川家康により江戸・日本橋から京都・三条大橋間に伝馬制度を確立したのが旧東海道の始まりで、江戸時代に整備された五畿七道のうち、東海道を通る幹線道路(街道)「東海道」にある53の宿場を指す。
この53の宿場はそれぞれ風光明媚な場所や有名な名所旧跡に設けられている場合も多く、当時浮世絵や和歌・俳句の題材にしばしば取り上げられた。幕府は江戸防衛上、沿線には譜代大名を配し、主な河川の架橋を認めず、要衝の地には関所をもうけるの一方、街道の両側には松を植樹し、一里塚を築き、宿駅を設置するなどして約500km、53の宿を持つ街道として整備された。
なお五十三次と称す場合は京都までの場合であり、さらに大阪までを表す場合は五十七次となる。 






1江戸・日本橋2品川3川崎4神奈川5保土ヶ谷6戸塚7藤沢 8蒲原9吉原10小田原11沼津12三島13箱根14小田原15大磯16平塚17由比18興津19江尻
20府中21丸子22岡部23藤枝24島田25金谷 26二川27白須賀28新居29舞阪30浜松31見付32袋井33掛川34日坂35吉田36御油37赤坂38藤川
39岡崎40池鯉鮒41鳴海42宮43桑名 44水口45土山46坂之下47関48亀山49庄野50石薬師51四日市52石部53草津54大津55京都・三条大橋
      

 平成20年7月13日   吉田宿ー岡崎宿その1  その2   
平成21年2月26日 有松宿ー宮宿 その1 その2 その3
平成21年12月13日 岡崎宿-宮宿
平成24年12月19日 桑名宿ー四日市宿  

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豊橋市・吉田宿〜岡崎宿 走り旅



7 月1 3 日(日)東海マラニッククラブ呼びかけの第一回旧東海道マラニック吉田宿(豊橋)ー池鯉鮒宿
編が行われ、フル百会員1 1 名を含む4 2 名のメンバーが参加しました。このコースは御油の松並木な
ど愛知県内で残されている旧東海道の貴重な名所旧跡を辿るものです。しかし、梅雨が明けたのでは
ないかと思われるくらい強い日差しの差込み、気温も3 5 度以上に感じられ、ゴールの池鯉鮒宿まで完
走したのは、篠田さんはじめわずか4 名だけで、他のメンバーは熱中病などの防止と身の安全を第一
に考え、岡崎宿でゴールとしたり、途中から電車やバスに乗ったりして勇気あるリタイアを実行しました。







吉田宿(よしだじゅく)は、江戸時代に設定された東海道五十三次の江戸側から数えて34番目の宿場である。現在の愛知県豊橋市中心部に相当する。
江戸の日本橋より西方73里(約287km)に位置し、東の二川宿とは1里20町(約6.1km)、西の御油宿とは2里20町(約10.5km)離れており、町並は23町30間
(約2.6km)の長さがあった。征夷大将軍の徳川将軍家の老中・大坂城代・京都所司代格の大名の吉田藩の所領であり、吉田城城下町と湊町(吉田湊、船町)
を合わせた宿場町であった。本陣が2軒、脇本陣が1軒、旅籠は65軒あった(1802年)。戸数は約1,000軒で人口は5,000から7,000人ほどであった。



 

 

 

 

 

 

 
 
 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 






御油宿(ごゆしゅく)は、品川宿から数えて35番目の宿場。現在の愛知県豊川市御油町に所在する。街道の面影を残す松並木(御油の松並木)が美しい
ことから観光地になっている。1601年に徳川家康が江戸日本橋から数えて35番目の宿駅として開設。本陣が最多時4軒。最少時2軒。江戸風俗史にある尻尾
の短い猫は御油猫と呼ばれ流行したが、御油から持ち込まれ、御油・赤坂の宿場駅間の短さを尻尾に例えて呼ばれた。明治維新後、宝飯郡役所が置かれ、
郡の中心になったが、東海道本線の経由地に選ばれなかったため、鉄道開通後は鉄道が通じた御津や蒲郡に繁栄を奪われた。



 

 

 

 

 







赤坂宿(あかさかしゅく)は、東海道の江戸品川宿から数えて36番目の宿場。現在の愛知県豊川市赤坂町に当たる。御油宿や吉田宿とともに飯盛女を多く抱えて
いた同地は、「御油や赤坂、吉田がなけりゃ、なんのよしみで江戸通い」と言われた程、活気のある宿場町であったが、東海道本線の経由地から外れたために、
御油宿同様、繁栄を鉄道通過地に奪われた。東海道筋で唯一営業を続けている旅籠として、「大橋屋」がある。赤坂宿と御油宿との間隔は、東海道の宿場の中で
最も短く、2km足らずである。関川神社(豊川市赤坂町字関川)には、「夏の月 御油より出でて 赤坂や」という松尾芭蕉の句碑があるが、この句は地理的に極めて
近い両者の関係を詠んだものであるとされる。また、松並木が現存している(御油の松並木)。




 

 

 


 

 


 

 

 

 

 






藤川宿(ふじかわしゅく)は、東海道の江戸品川からかぞえて37番目の三河国の宿場。現在の愛知県岡崎市藤川町辺り。鎌倉街道時代からの古い宿場である。
明治に入り、鉄道の発達とともに宿駅の機能は失われ、紡績工場が発展した。しかし旅人を日照りや寒風から守る松並木は、開発の波に押されながらも、大切に
保存されている。藤川宿の名物は麦の穂が紫色の「むらさき麦」と「藤の花」で芭蕉の句にも「ここも三河むらさき麦のかきつばた」と詠まれている。


 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 







岡崎宿(おかざきしゅく)は、東海道の江戸品川宿から数えて38番目の三河国の宿場。現在の愛知県岡崎市中心部。岡崎宿は
東海道でも府中宿・宮宿と並ぶ大きな宿場であった。また、岡崎は徳川家康の生誕の地であり。城下には敵の進入を防ぐため、
道を複雑に巡らせ「岡崎27曲がり」と言われた特徴ある城下町でもある名物の八丁味噌は有名。



 

 

 

 

 

  

 

 









豊橋市「吉田宿」〜知立市「池鯉鮒宿」の走り旅

2月26日(木)洋友会(旧職場の親睦会)の歩こう会で旧東海道、桶狭間古戦場(有松宿)から宮宿まで約15kmを歩いてきました。
前日の開催予定を雨天のためを今日に延期した甲斐があり大変良い天候となりました。
今日の大きな収穫は、我が家のルーツをゴール
の宮宿で発見したことです。
宮宿の船着場に面した大きな建物には名古屋市教育委員会の案内板があり、次のように記載されています。
 「木造・二階建・切妻造・桟瓦葺平入り・正面庇付でこの建物は明治29年(1896年)武藤兼次郎が建てた「魚半」という料亭であった。
戦争中三菱重工業の社員寮にされ、現在は高齢者福祉施設として利用されている。建造時期は新しいが、近世の町屋の形式を継承しており、
旧船着場に面して建ち、宮の宿の景観をしのばせる数少ない遺構の一つで、
市の有形文化財に指定されている。名古屋市教育委員会」 
私の祖父、武藤銀太郎は兼次郎の弟で明治30年、24歳で陸軍第9師団が金沢に進駐したとき、御用商人として同行し、同時に金沢で料亭
「魚半」を興したということを聞かされており、もともと私の家は名古屋の出身だと知っていたので、
そのルーツを改めて確認でき感慨深いものがありました。
この宮宿は東海道七里の渡しの起点であり、同時に現在の我が家の近くを通る美濃路街道の終点(起点)でもあり、何か不思議な因縁を感じます。
すでに完踏した中山道やこれから完踏を目指す東海道、甲州街道、日光街道、奥州街道の日本の五街道をはじめ、各地の街道歩きに一層の励みとなりました。








 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



鳴海宿:鳴海は古くは成海とも書き海に面していたが、今は土砂の堆積で海は遠く離れてしまった。
鎌倉時代は鎌倉街道が通り、戦国時代は織田・今川両勢力の接触地点で、鳴海城が設けられた。
江戸時代、間宿の有松で作られた木綿の絞は街道の人気商品となり商家が立ち並ぶようになった。現在でも江戸の町並み景観が美しい町の有松絞り(鳴海絞り)として続いている。








岡崎宿〜宮宿 走り旅


平成21年12月13日   東海マラニッククラブ  晴れ

12月13日(日)東海マラニッククラブ呼びかけの旧東海道街道マラニック岡崎-宮宿編が28名(内フル百6名)の参加で行われた。去年の夏、旧東海道吉田宿-池鯉鮒宿マラニックは暑さのため殆どのメンバーが岡崎で勇気あるリタイアを敢行、今回はそのリベンジだ。途中池鯉鮒、阿野一里塚、桶狭間合戦場跡、笠寺観音などで記念撮影、涼しい気候にも助けられ順調に走り予定通り3時にゴールの宮宿に到着、船着場前の私の祖父の兄、武藤兼次郎が明治29年に建てた料亭・魚半(名古屋市の有形文化財に指定)の前で記念撮影した。ゴール後宮の湯に向かい、疲れて冷えた体を温泉で暖め生き返り、生ビールで乾杯して忘年会となり、来年も元気一杯走りまわろうとお互い誓い合った。
これで旧東海道は愛知県内の吉田宿ー桑名宿(佐屋街道経由含む)を完踏したことになり、旧東海道53次、540km全行程完踏に向け新たな意欲が湧いてきた。



岡崎スタート 09時7分
池鯉鮒宿 10児57分
桶狭間合戦場 12時54分
有松 13時10分
鳴海宿 13時35分
宮宿ゴール 15時00分









 

 

 

 

 

 








 

 

 

 

 





 




 
 


池鯉鮒宿(ちりゅうじゅく)は、東海道の江戸品川宿から数えて39番目の宿場。歴史的仮名遣いでは「ちりふ」。現在の愛知県知立市に位置する。江戸の日本橋から約330kmで、当時およそ10日間かかったといわれている。
馬市が立ったことで知られており、歌川広重の「東海道五十三次」にも「首夏馬市」として描かれている。






 

 

 




 


 

 

 

 

 







 

 

 

 




 




 

 

 

 

 



 

 




 

 




 



 

 

 

 









平成24年12月19日 桑名宿ー四日市宿  














  






  

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