2 回 中 道・下

東海マラニッククラブ(TMC)呼びかけ)



武藤 翔峰   平成21年10月19日


10月18日(日)東海マラニッククラブ呼びかけ呼びかけの第2回中山道・下街道マラニックが41名(内フル百8名)の参加で行われた。

下街道ルートは中世時代からの物資輸送の重要な古道であった。近世になり尾張藩が中山道へ通じる道路として木曽街道(名古屋ー小牧−善師野ー土田)の開発、下街道ルートの整備(釜戸―槇ヶ根間このとき開通)をした。木曽街道を公道したので“上街道”、それに対する呼称として“下街道”と言われるようになった。
下街道は名古屋と中山道を結ぶ脇往還として宿場もなければ、関所もなく自由に往来できる庶民の道であった。
ルートは、槇ヶ根の追分から中山道と分れ、竹折-釜戸-土岐-高山-池田-内津-坂下-勝川-から名古屋に通じ、中山道(大湫-細久手-御嵩-伏見-土田-)上街道経由より約4 里(15km)短く、起伏も少なく、手間のかかる荷継ぎ、馬継ぎもなく、さらに運賃が安かったので物資輸送としてよく利用されていた。また、善光寺参り、伊勢参り、御嶽講などの旅人の道として定着していた。
上街道は、公用の荷物、役人の通行が優先されたので庶民は敬遠。尾張藩山村氏、千村氏などは自前で人馬調達して沿道に迷惑かけないようにして下街道を通行していたことからも利用する人が少なかったようだ。
下街道の利用が活発になることは上街道の各宿場にとっては荷が減り、旅人が減り駄賃、宿賃稼ぎができず死活問題であった。そのため寛永元年(1624)小牧、善師野、土田の宿連名で“下街道の商人荷物通行禁止”の訴状を出した。藩もそれに対応した規制を出したが守られず、その後幕末まで何度か“訴状―規制”が繰り返されたが十分な成果をあげることは出来なかった。(後に山村氏、千村氏の特例も廃止される)
下街道利用の最大の理由は距離が短い・早い・規制が少ないことであった。
下街道は官道の指定がなかったので宿駅はあっても問屋、人馬継立ての設備は貧弱。道幅は2.・3間と狭く、災害等の維持管理も大部分自前であった。街道には土岐川を始め肥田川、妻木川、生田川などがあり橋賃も馬鹿にならず、また洪水などで渡ること出来ない時もあった。
明治13 年明治天皇の行幸経路が下街道に決まると大改修工事が行われ、以後利用が更に高まった。しかし明治33 年名古屋―多治見間に始まった中央線の開通とともに新時代を迎える。

天候も気持ちの良い秋晴れで、夏と違って風も涼しく、途中には、木下さんご家族サポートのエイドが2ヶ所もあり、大変快適なマラニックとなった。木下さん、ありがとうございました。









 

 



 

 





 

 

 

 
 
 



 

 

 

 



 

 

 

 

 



 



 

 

 

 

 





 



 

 

 

 

 



 







 
 
 

 

 

 

 

 



 

 

 



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