第1回鮎鮨街道マラニック 武藤 翔峰 平成21年9月29日
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◇区 間 | 一般的「岐阜〜稲沢」、広義「岐阜〜熱田」、狭義「岐阜〜笠松」 稲沢四ツ谷追分から熱田までは「美濃路」を利用した。 |
◇鮎 鮨 | 握り鮨や押し鮨とは違い、鮎をご飯と一緒に醗酵させた「熟鮨(なれ鮨とも呼ぶ)」である。琵琶湖の「鮒鮨」と同じ作り方である。 |
◇謂 れ | 徳川家康が大阪夏の陣の帰り、嫡男「秀忠」を伴って長良川に寄った際、鮎鮨を堪能した。それ以前に、美濃代官「大久保長安」 が鮎鮨を家康に献上しており、美濃の地を尾張藩が治めた時から引き継がれてきた。 |
◇期 間 | 5月〜8月の4ヶ月間、10日に1回の割合で出荷された。 |
◇数 量 | 1回で約360尾、一夏で10回〜12回、3600尾〜4320尾。 |
◇日 程 | 岐阜〜江戸までの所要日数は大体「5日間」。岐阜〜江戸の46宿場搬送リレーした。岐阜を夕方に出発し、岡崎で朝を迎え、 2日目の朝は日坂、三日目の朝は蒲原、4日目の朝は小田原で迎え、4日目の夕方には江戸へ着いた。 |
◇隊 列 | 監督役「宰領」が先頭で羽織姿、次に「御証文箱持ち」が続き、鮎鮨の 担ぎ手人足は交代要員を含めて10人前後、先触れ役等を含めて総員15名前後であった。 |
◇担ぎ手 | 人足は地元の農民が強制的に割り当てられ、農繁期は嫌がられた。 |
◇五点セット | @荷の鍵 A幕府老中が発行した御証文 B万一のための御証文の写 C鮎鮨製造元が書いた添え書き D宿次が受け取った時刻を記録した刻付帳 |
◇高嶋家 | 笠松の「味噌・醤油屋」で有り、鮎鮨街道の「宿次」を担っていたことから、唯一の「古文書」を保存していた。ルーツは 高島市の近江商人。現在は九代目 高嶋久右衛門氏が世襲している。 |
◇杉山邸 | 高嶋家と同じ「味噌・醤油屋」であるが、高嶋家よりも世代が旧く、笠松の草分け的存在者であった。現在は十五代目 杉山銓二郎氏が世襲している。笠松町商工会議所の初代会長を勤めた。岐阜新聞・岐阜放送会長の杉山幹夫氏の祖父である。 |
◇岡本邸 | 日本最古の鋳造メーカーの創業者の居宅である。江戸時代末期に建築さ れたもので、岐阜市の都市景観重要建築物に指定されている。 |
◇楽市楽座 | 織田信長が岐阜を治めていた頃、町を繁栄させるために「楽市楽座」を開いたが、その名残が「美園町四丁目」辺りで見られる。 |