第1回鮎鮨街道マラニック

武藤 翔峰   平成21年9月29日


鮎鮓街道(あゆすしかいどう)とは徳川家康への鮎鮨の献上ルートのことである。 岐阜から熱田を結ぶ尾張街道の別名のことで「鮎鮨街道」、「御鮨街道」と呼ばれていた。

慶長8年(1603年)に 美濃国奉行であった大久保長安が徳川家康、秀忠に鮎鮨を献上。元和元年(1615年)からは毎年5月から9月ころまでの間に10〜20回、岐阜町のおすし元から、加納(岐阜市)問屋場を経て、笠松問屋場で受け継ぎ、一宮(愛知県)問屋場へそして江戸へと送られた。1回に鮎鮨4桶(1桶に鮎大10尾、小20尾)を1荷として3〜5荷を江戸城に向けて輸送ようである。

江戸に着くころに発酵して食べごろになるように作られていたため、予定の期日に遅れないように岐阜から江戸までの46の宿場を通過する時間を指定しており、当時の宿場帳によるれば、岐阜から江戸まで5日間で運んでいたようである。

9月27日(日)東海マラニッククラブ呼びかけの第1回鮎鮨街道マラニックが46名(内フル百12名)の多くのランナーの参加で行われた。

このレースのスタートも鵜飼観覧船が並ぶ観覧船乗り場付近で岐阜市内や笠松町内は木下さんや千田さんの解説を聞きながら、先人の歴史を辿った。岐阜市内や笠松町内には鮎鮨街道や御鮨街道の道標や石碑、看板などが見られ先人の遺産を残そうと言う努力が見られ頼もしく感じ、また、日ごろの生活圏の中にこのような歴史的遺産が残されていることに感銘を受けた一日だった。
ゴールは稲沢市の美濃路街道との分岐点、四ツ家追分で宮の湯にゴールしたのは26名だった。

コース概略 

長良橋〜泉町〜小熊町〜加納新町〜茶所〜笠松湊〜一宮黒田町〜酒見神社〜真清田神社〜下津新町〜
 稲沢市四ツ家追分〜宮之湯



YouTube 動画ムービー 鮎鮨街道マラニック その1
YouTube 動画ムービー 鮎鮨街道マラニック その2





◇区 間 一般的「岐阜〜稲沢」、広義「岐阜〜熱田」、狭義「岐阜〜笠松」
稲沢四ツ谷追分から熱田までは「美濃路」を利用した。
◇鮎 鮨 握り鮨や押し鮨とは違い、鮎をご飯と一緒に醗酵させた「熟鮨(なれ鮨とも呼ぶ)」である。琵琶湖の「鮒鮨」と同じ作り方である。
◇謂 れ 徳川家康が大阪夏の陣の帰り、嫡男「秀忠」を伴って長良川に寄った際、鮎鮨を堪能した。それ以前に、美濃代官「大久保長安」
が鮎鮨を家康に献上しており、美濃の地を尾張藩が治めた時から引き継がれてきた。
◇期 間 5月〜8月の4ヶ月間、10日に1回の割合で出荷された。
◇数 量 1回で約360尾、一夏で10回〜12回、3600尾〜4320尾。
◇日 程 岐阜〜江戸までの所要日数は大体「5日間」。岐阜〜江戸の46宿場搬送リレーした。岐阜を夕方に出発し、岡崎で朝を迎え、
2日目の朝は日坂、三日目の朝は蒲原、4日目の朝は小田原で迎え、4日目の夕方には江戸へ着いた。
◇隊 列 監督役「宰領」が先頭で羽織姿、次に「御証文箱持ち」が続き、鮎鮨の
担ぎ手人足は交代要員を含めて10人前後、先触れ役等を含めて総員15名前後であった。
◇担ぎ手 人足は地元の農民が強制的に割り当てられ、農繁期は嫌がられた。
◇五点セット @荷の鍵 A幕府老中が発行した御証文 B万一のための御証文の写 C鮎鮨製造元が書いた添え書き
D宿次が受け取った時刻を記録した刻付帳
◇高嶋家 笠松の「味噌・醤油屋」で有り、鮎鮨街道の「宿次」を担っていたことから、唯一の「古文書」を保存していた。ルーツは
高島市の近江商人。現在は九代目 高嶋久右衛門氏が世襲している。
◇杉山邸 高嶋家と同じ「味噌・醤油屋」であるが、高嶋家よりも世代が旧く、笠松の草分け的存在者であった。現在は十五代目 
杉山銓二郎氏が世襲している。笠松町商工会議所の初代会長を勤めた。岐阜新聞・岐阜放送会長の杉山幹夫氏の祖父である。
◇岡本邸 日本最古の鋳造メーカーの創業者の居宅である。江戸時代末期に建築さ
れたもので、岐阜市の都市景観重要建築物に指定されている。
◇楽市楽座 織田信長が岐阜を治めていた頃、町を繁栄させるために「楽市楽座」を開いたが、その名残が「美園町四丁目」辺りで見られる。





 

   




  

 




  

 

 


    





 

 





 

 



 





 



  












   












 ホーム東海マラニッククラブ犬山走友会

Powered by FC2.com
inserted by FC2 system